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まちでであった芸術。そのしごと、しごと場。
by gei-shigoto
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チャイコフスキーの協奏曲を聴いて

札幌で、松田華音の演奏するチャイコフスキー作曲、ピアノ協奏曲第1番を聴いた(NHK交響楽団演奏会 札幌公演)。チャイコフスキーの協奏曲が、行き着くところまで行った。極められた。
 
 2019
年に演奏誌を書いた。「大地の限りない広がりに、個人の懊悩がじかに接続されること。これこそが、作曲家、チャイコフスキー。」
 今回、それにあるものが加わった。民衆への呼びかけ姿勢である。苦悩に満ちたチャイコフスキーが冬の自然に救済されるだけでなく、確かに民に、幾度も「劇」を見せようとした。
 舞台の過半を占める、演奏の厚み、充実。管弦楽の大変な芸術世界が押し寄せてくるが、波動はむしろ松田の方から発するのだった。
 ロシアの俳優、演出家、コンスタンチン・スタニスラフスキーの「途切れぬ線」を想った。みずみずしい筆致は言うまでもないが、場面の移り変わりにまで行き届き、線が切れない。
 民のために、個人の想いと自然、民族の精神との関わりを全力で描き、民を力づけようとしていた。
  
 第1楽章。ロシアの冬の大地とわたし。吹き渡る風、清らかな光、氷の輝きと、それに救われる、苦悩するわたしの姿。
 いったん静まったのち、気分が一変する。ウクライナのカメンカの町で耳にした民謡。民族のうちに眠っている偉大なものの発見。民を代表して暗い時代を生きる個人の想いと、自然、民族文化との強い結びつきを描き尽くそうとしていた。民に、救いの道を示そうとする。
 民の今にも破綻しそうな日常を知っていて、代わりに芸術の中で破綻させたとしか思えない。抱えている悩み、不安の破壊的救済。
 そして静かな平原。その懐は、どこまでも深い。それが、私たちにはあるというチャイコフスキーの想い。それを民と確認し、共有しようとしていた。
 そして、再びカデンツァ。澄んだ氷の輝き。そこに、無限の美が、多様性が、達成があることを伝えたかった。そういう日常の愛惜。慈しむように見て、感じて生きてほしかった。
  
 第2楽章。穏やかな初春と芸術家であるわたし。春の兆しを感じつつ歩む静かな喜びと、旋律が湧き起こったときの衝動。
 すべてが生き始めている。そういう生命の詩がそこここに聴こえる。そういう幸福に目を向けてほしかった。
 そこに、気ぜわしいカプリッチョ。この秀逸、華麗な芸術は、やがて牧歌に戻ってきたとき、それを新鮮な目で見つめさせるのだった。生きる力にしてほしかった。
  
 第3楽章。春の荒々しい到来とロシアの新時代。春の解放感と生の喜びに貫かれた民族舞踊が、ロシアの新時代を切り開く芸術へと劇的に高まっていくさま。
 これはまさに民の文化の精髄。見事にその核心が音楽化されていた。これほど可能性を秘めたものだったのかという驚き。秘められた美、活力、魂。発展性、構築性、斬新さ、展開力。
  
 2019年に
書いた演奏誌を読み直していたら、チャイコフスキーは運命や宿命について多くのことを深く考えていたという箇所に目が止まった。彼は、自分の運命を真剣に考えていた。しかしそれ以上に、民衆の運命を考えざるを得なかったのだろうと想像した。
 ロシア出身のバレエダンサー・振付家であるジョージ・バランシンは言っている。ロシア人はみなドストエフスキー的な嵐を心の中に持っている。そのことを、チャイコフスキーは誰よりも知っていたに違いない。
  
 2019
年の春に、モスクワからクリンに足を伸ばして、チャイコフスキーの家を訪れた。チャイコフスキーは、祖国の偉大な誇りであると同時に、非常に人々にとって近しい存在であることを感じた。このことが、今はとてもよく分かる。
 チャイコフスキーは、20代の頃から尊敬する人物だった。交響曲を聴き、初めて作曲家の伝記を読んだ。雲の上の存在だった。
 しかし、彼の意志を受け継ぐべき時期なのではないか。チャイコフスキーは偉大だが、21世紀を生きることはできない。
 
 世界には豊かな芸術文化があり、多彩な世界観がある。しかし、次代の共生社会実現の突破口になるのは何かと考えたとき、人類はまず何を共有するべきかと考えたとき、それはクラシック音楽であり、ピアノ音楽であろう。
 音だけで想像を促すから。その音の表現の幅がこの上なく広いから。そして作曲家が自らの生を世界に開いていこうとする意欲を第一に託す楽器だから。
 
 松田の演奏は、そうしたピアノ演奏芸術の究極の姿である。一つの時代、境遇、自然の中で、人間が感じ、思考し、意欲し、行動することによって新しい生へと開かれていこうとするドラマ。結末に至る過程で、何と多様な意味を生成していくことだろう。
 「近代絵画の父」と称されるセザンヌの絵画がそうであったように、近代の作曲家たちの営みは、近代化に迎合するものではなかった。近代化に抗する意思が込められたものだった。
 松田のピアノ演奏芸術は、普遍的な文明の押し寄せた西洋近現代を、自然と交感し、他者と共感しつつ人間的に生き抜こうとした作曲家の生を生き、そうした体験を聴き手にもたらそうとする。共生の時代を切り開こうとする人類のプレテクストとして、大いに機能する芸術である。
  
 専門的訓練を受けたロシア最初の音楽批評家で、チャイコフスキーの才能を認めた最初の音楽人であるゲルマン・ラローシ(
18451904)は、1866年にチャイコフスキーに宛てた手紙に次のように記した。
  
<率直にいおう。きみの音楽的才能は、だれよりも優れており、祖国ロシアが期待をかけることができるほどだ。ぼくは、そう考えている。……ぼくは、きみに、ロシア音楽の未来における最大の希望、というより、むしろ唯一の希望を見る。>〔『伝記世界の作曲家 チャイコフスキー』〕
  
 チャイコフスキーの意志を受け継ぐべき時代が来ている。


# by gei-shigoto | 2023-08-31 18:07 | 音楽

ラフマニノフの協奏曲を聴いて(2023年)

 718日(火)、東京文化会館。「MIN-ONクラシック・プレミアム 高関健×松田華音×東京シティ・フィル ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」&チャイコフスキー「交響曲第5番」」。
 
  ボロディン作曲交響詩「中央アジアの草原にて」
  ラフマニノフ作曲ピアノ協奏曲第2番(ピアノ:松田華音)
  チャイコフスキー作曲交響曲第5
  
 松田の弾く協奏曲を初めて聴いたのは、
2018年の11月だった。鮮烈だった。使命感というものに、初めて向き合った。
 
<そして、第
2主題をピアノが受ける。協奏曲の全貌が、眼前に開けた。息を飲んだ。悩みの底に沈んでいたラフマニノフが、愛に出会い、生を信じ、ついに自分の使命を見出す。物語がそこに見えた。>
<1週間ほど前のことだった。わたしは自分の人生の使命に気づいた。生まれて初めての感覚だった。目標と使命は、同じようだが、違うもののように思われた。身が引き締まった。>
  
 これは、後で演奏誌と名づけることになる、新しい文芸を世の中に打ち出すという冒険だった。この冒険は、とにかくひとまず完遂した。
  
 そして、
2023年。さらにこちらに踏み込んでくるものだった。
 第1楽章。間違いなく、人間ラフマニノフなのである。しかし、人間という枠では狭いというのか。序盤から枠を踏み出す。ピアノは重くうなり、世界からほとんど離脱しようとするのだった。
 氷の輝きに救われ、やっと息をつく。しかし、それは風景描写とは言えない。語るべきことがあまりにも多いからだ。逡巡、脱出、希求、覚悟、決意。遥かなるものを、我が手でつかみ取りたい。
 
 第
2楽章。青い森。森と、彼を訪れた愛は、時間もなく、その果てを知らない。
 その不思議の中で身を持していると、冷たい風が彼の苦しみを引き出してしまう。乗り越えようとする者に、あるとき光が射す。音の世界が開けるのはそのときだった。
 再び青い世界。このような愛との出会いが後押しし、次の世界へと向かわせたのだった。

 そうしてたどり着いた最終楽章。間違いなく社会だった。それは、彼の前に厳然と存在している。しかし、脅えることはない。勇躍切り込んで、力の限り響かせるのである。
 恩寵のような調べ(第2主題)が訪れたのは、そのときだった。ピアノは、それに手を伸ばそうとする。人間の高貴さ。高い光に向かって手を差し出せば、きっと我が手でつかむことができよう。
 このときノートに、「遍歴は、そう思わせてくれた」と書いた。わたしに、わたしの使命を自覚させた旋律が、この日、この5年を想起させた。使命はとにかく、成し遂げられた。
 しかし、そこからだった。結末までの出来事の連なり。第1楽章からの演奏が、厚く壮大に押し寄せ、筆が追いつかない。世界全体を抱き込んで共振するのだから。
 わたしはその振動のただ中で、またしても見取り図を失う。またしても、投げ出された。松田の芸術は、人を、彼の人生に投げ出す。
 書き手として、教師として、共生の世のために生きなさい。

 『ピアノ演奏芸術 松田華音の世界』を出版して、松田の芸術を世界に知らしめる。共生をテーマとした教科書を編集して、共生の時代を切り開く人材を育成する。同じ使命を抱く、2つの仕事である。


# by gei-shigoto | 2023-07-20 05:37 | 音楽

川久保賜紀・佐藤晴真・松田華音 チャイコフスキー作曲 ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」

 2023629日(木)、調布グリーンホール。調布国際音楽祭2023、「川久保賜紀×佐藤晴真×松田華音 チャイコフスキー《偉大な芸術家の思い出に》」。
  
  チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲より(プレトニョフ編)(松田)
   1.行進曲  2.金平糖の精の踊り  4.間奏曲
   5.トレパーク  6.中国の踊り
  チャイコフスキー:なつかしい土地の思い出(川久保・松田)
  ラフマニノフ:ヴォカリーズ(佐藤・松田)
  チャイコフスキー:四季(松田)
   6月「舟歌」  7月「刈り入れの歌」
  チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」(川久保・佐藤・松田)

   
 チャイコフスキー(
18401893)のピアノ三重奏曲イ短調(作品50)は、1881年から1882年にかけて作曲された、旧友ニコライ・ルビンシテイン(18351881)への追悼音楽である。ニコライは、実兄アントン・ルビンシテイン(チャイコフスキーの直接の師)とともにロシア音楽の発展と紹介に大きな功績をあげた人物で、当時有数の名ピアニストだった。
  
  第
1楽章 悲歌的小品
  第2楽章 (A)主題と変奏 (B)最終変奏とコーダ
 
第1楽章  
 残された者の今日。第
1楽章はそういう楽章だと思っていた。
 ところがチェロ、ヴァイオリンによる喪失感を受け継いで入ってきたピアノ。残された者ではなく、紛れもなくチャイコフスキーその人だった。
 何も抑えはしない。すべてをここで吐露してしまう。「世界というものは、何なのか?」とノートに書いていた。まだ始まったばかりなのに、演奏の根幹を据えてしまう。そういう三重奏だったと後で思った。
 チャイコフスキーの、心の破綻。この楽章のピアノは、世界の動転なのだと思っていたが、世界と心がもつれてどうにもならない。分けることができない。これが分けられたら、どんなに楽だったろう。松田は、そういうチャイコフスキーを生きて、伝えてくれた。
  
 麗しい、信じられる世界。夢のように、思い出は美しい。しかし、ふと我に帰る。事実は事実である。
 そのときのヴァイオリンの嘆きの歌。
 川久保のヴァイオリンは、人物を現出させるものではない。中心への求心力の強さでもない。微妙な音の世界。聴き手をそこへ迎え入れる。
 嘆きの歌は、むせぶ声なのだが、その内側に控える情念。その2つを同時に見つめさせ、感じさせる。そういう構えの、そういうことに出会わせていく芸術。
 悲しみに沈むとは、耐えるとは、そういうことなのだと言っていた。この芸術に、一つの救いを、光をもたらした。
  
 そうやってヴァイオリンが嘆きに沈むときの、佐藤のチェロ。
 佐藤は、突出した音を弾かない。硬質に立ち上がる音色や、素早い表情の変化に行ってしまうことがない。自然で、深々としている。
 当事者からやや離れて控える。まるで、友人のようだった。まるで、世界のような友人だった。そういう見守る者の心と姿を、世界の奥行きを、この日の三重奏は最後まで携えて、失うことがなかった。
 
第2楽章  
 そして、第
2楽章。松田のピアノ。戸外である。春である。光も、野原も、そよ風も。やさしさ、さわやかさ、春の希望のすべてがあり、チャイコフスキーとわたしを迎えた。
 自然は、何も変わらない。この作品には、これがあったのだ。いや、人の人生にはこれがあったのだ。そういう感嘆、救済のときを、松田は作品の中に広げた。
  
 楽しい語らい。才気ほとばしる創造。楽の歓びはわれわれを満たしてくれた。月日に浄化された過去のできごと。それが、思い出。
 第7変奏。「そんな偉大な輝かしい芸術を、あなたは打ち立てたんだ。世に広めたんだ。」
 第8変奏は、フーガ。「あなたは、礎を築いた。芸術は世に伝わり、後進に引き継がれていく。ロシアの音楽は、未来へと進んでいく。」
 チャイコフスキーは、やがて作曲に取り掛かる。「創作に打ち込む日々。それは、新しい時代精神に十分に挑むものでなければならない。」
 しかし、急転。曲を作り終えると、今日に帰ってきてしまう。その悲しみは、作曲を引き留める。チャイコフスキーは、前後に引き裂かれる思いだった。「あなたは、何を望むというのか? どうしろというのか? 助けてほしい。」
  
 川久保賜紀、佐藤晴真、松田華音。三つの独自の芸術が組み上げられた。作品の奥行きを、的確に極めた。作品の真価を知った。


# by gei-shigoto | 2023-06-29 23:07 | 音楽

上原彩子&松田華音 ラフマニノフ ピアノ・デュオ・リサイタル

 202367日(水)、サントリーホール。「上原彩子&松田華音 ラフマニノフ ピアノ・デュオ・リサイタル」。
  
  「
12の歌」Op.21より 第5曲「リラの花」(松田)
  練習曲集「音の絵」Op.39より第6曲「赤ずきんちゃんと狼」(松田)
  「楽興の時」Op.16より第6番(松田)
  「2台のピアノのための組曲 第2番」Op.171st:松田、2nd:上原)
  「13の前奏曲」Op.32より
   第2曲 変ロ短調 第6曲 へ短調 第10曲 ロ短調(上原)
  「交響的舞曲(2台ピアノ版)」Op.451st:上原、2nd:松田)

<今年が生誕150年、没後80年に当たるセルゲイ・ラフマニノフ(18731943)は、ロシアのサンクト・ペテルブルクの南方に位置するセミョノヴォ(現ノブゴロド)に生まれ、ペテルブルク音楽院を経てモスクワ音楽院に学んだ。同音楽院在学中から作品を発表し、作曲のほかピアニスト、指揮者としても活動し、その活躍の場をヨーロッパに、さらにはアメリカにも広げた。1917年にロシアに革命が起こったことを受けて、1918年に再び渡米し、アメリカで世を去ることとなるが、在米中は演奏活動の方に重きを置いていた。
 ラフマニノフは、19世紀末から20世紀初頭にかけて最も活躍した、ピアノのヴィルトゥオーゾの一人である。優れたピアニストだっただけに、彼のピアノ曲には高度な演奏技巧が盛り込まれ、同時に、ショパンやリストの影響のもと、ロマンティックで流麗な作風を示す。同世代のロシア出身のスクリャービンやストラヴィンスキーの場合とは違って、あくまでも19世紀のロマン主義を保ち続けたその作品は、機能和声の枠を出ない書法や、センティメンタルな味わいを含む独特の旋律美によって、親しみやすい印象を強めている。>〔原明美「Program Notes」〕

  
12の歌」Op.21より 第5曲「リラの花」(松田)
 1902年、ラフマニノフが結婚した年に、モスクワから約500km離れたイワーノフカ村の別荘で書き上げた「12の歌」Op.21は、幸福感に満ちた歌曲集。その第5曲「リラの花(ライラック)」。ロシアでは5月にリラの花が咲きみだれる。彼は、1913年ごろにピアノ曲に編曲した。
  
 朝の静けさ。ひんやりとした空気。緑の広がり。
 そこにすがすがしく香り立つ。夢のように透き通っている。
 しかし女の想いの複雑なこと。想いのひだ。
 しかし今は、夢の方に行ける。リラが咲いているから。
 いつまでも、その世界がそこにあるように。香りの中で、祈っている。
  
練習曲集「音の絵」Op.39より 第6曲「赤ずきんちゃんと狼」(松田)
 練習曲集「音の絵」(「絵画的練習曲集」)は、「前奏曲集」と共に、ラフマニノフの代表的なピアノ曲集であり、Op.33(1911年完成)Op.39(1917年完成)2集から成る。1917年にパリに亡命し、翌年アメリカに渡ったラフマニノフにとって、Op.39は祖国ロシアでの最後の作品となり、彼自身が初演した。全9曲から成るOp.39から、今回演奏される第6番は、本来Op.33-4として書かれていた曲を改作したもの。アレグロ、イ短調で書かれたこの曲について、ラフマニノフ自身は、「赤ずきんちゃんと狼」という標題を、作曲家のレスピーギに語ったと、伝えられている。
 
 怖ろしい何かの接近。不気味な威圧感。
 逃げ惑う少女。希望のない逃走。幾度も恐怖に襲われ、心は千々に乱れる。
 そこに、淡々と行進曲。それは確かに陽気だった。自らを誇っている。
 そして、場は大乱闘に。世界はすっかり乱れ切った。
 残ったものは、狼の愉悦。ただそれだけ。
 最後の逃走は、まったく儚い。寂寞とした風景。そして、扉は閉じられる。
  
「楽興の時」Op.16より 第6
(松田)
 モスクワ音楽院在学中から作品を発表していたラフマニノフが、1896年、23歳のときに書き上げた作品。前年に交響曲第1番を書き終えていた。それには、ロシアの叙事詩を書かねばならないという使命感が含まれていた。それは、自分と世界の関係をつかむ行為そのものだった。「楽興の時」は、そうした交響曲の初演の機会を待っていた時期に書かれた、ラフマニノフの独自の一歩である。
  
 眼前に奔流。水量の豊かさ、雄大さ。
 しかし、わたしの中に、同じくらい確固とした奔流が渦巻く。先へと、未来へと運んでいく。
 そのとき、無垢なきらめき。生まれたばかりの命。
 そういう純粋な希望から発して、希望を含んで、自らが流れになって、今開けてきた方へと全身で進んでいく。
 そこにはきっと、歓喜が、人生の安らぎや愛が待っているのだろう。
 それらを遠く目指して、わたしはわたしを進めたい。
  
2台ピアノのための組曲 第2番Op.17
(1st:松田、2nd:上原)
 1900年~01年に作曲された。ほぼ同時期に完成したピアノ協奏曲第2番とともに、ラフマニノフが作曲家としてのスランプを脱する突破口となった作品。作品16の「楽興の時」(1896年)から実に5年の空白を置いて、次の作品番号を持つ組曲第2番が発表された。
  
1曲「序曲」
 新時代。あくまでも画然と、高い響きで。
 しかし、その底を熱く渦巻き、流れるもの。
 香り高い詩情、理想。抑え切れぬ躍動。ここに同時に存在するのだ。
 そして前を向く。いつでも動き出せる。新時代へ、いつでも勇躍、躍り出していける。
  
2曲「ワルツ」
 澄んだ予感。そして、心の高鳴り。
 高い世界へと、素晴らしく流れていこうとする。
 そのとき、夢の広がり。そこからの、麗しい見渡し。
 幸福、希望。ここに至りたかった。
 すべてを包み入れられる。このこみ上げるものから、わたしは生きていく。
  
3曲「ロマンス」
 林間を流れる風。わたしはそれを感じている。
 わたしは、そのとき最もわたしに帰る。
 風はわたしに入り、またわたしを離れる。
 わたしは自然のものとなり、またわたし自身になり、再び力を得て、高まり生を解放してゆくことができるのだ。
  
4曲「タランテラ」
 そして、厳然とした社会。激しく動揺する同時代。
 しかし、わたしはその中で、緻密に情緒を、人の心を描き込もうと挑んでいる。
 流され、翻弄されながら、命を続け、たゆまずに、ついに次代の扉を叩く。
  
13の前奏曲」Op.32より(上原)
 ラフマニノフの前奏曲(プレリュード)は、「幻想的小品集」op.3(1892)の第2曲としてあるものと、op.23(10曲、1902年~03年、第5番のみ1905)op.32(13曲、1910)を合わせて、全部で24曲あり、24の異なる調による前奏曲を構成している。
 作品32は、1909年のアメリカ演奏旅行から帰って、モスクワに定住した1910年の秋に、比較的短い期間に作曲された。
  
2曲 変ロ短調
 哀愁のさまざまな表情。入り乱れて定まらず、不安が去ることはない。
 それらはやがて綾なし始め、苦しませ、わたしを追い込もうとする。
  
6曲 へ短調
 黒い情念。わたしの中にあるもの。それはわたしにはどうにもならぬうごめき。
 しかし、模索を重ね、持続すると、一瞬の霊感に打たれる。つかみ取ろうとする。
  
10曲 ロ短調
 秋の空気。もの悲しさ。漂って、孤独を一人見つめている。
 そこに厳かな時空。虚ろで巨大なもの。破格の空洞。世界の果て。
 秋のさみしさ。わたしは、そんな境涯から、今を見つめているのだ。
  
「交響的舞曲(2台ピアノ版)」
Op.45(1st:上原、2nd:松田)
 ラフマニノフがアメリカに移って以後、194010月にニューヨークのロングアイランドで書き上げたこの曲は、彼の最後の完成作とされる。元来オーケストラのために書かれ、交響曲を思わせる規模の作品である。作曲者自身が「何が起こったのか自分でもわからないが、おそらくこれが私の最後の煌きになるだろう」と述べたように、この作品がラフマニノフの「白鳥の歌」となった。
  
1楽章
 耳を澄ませる。感覚を研ぎ澄ませて。
 しかし、外は騒然。時代の律動。行き交う人の波。集まっては崩れ落ちるのだった。
 しかし、あそこに帰ろう。雨のそぼ降る林。透明に反響する雨音。
 わたしは、ここから歌っていこう。深遠に雨に煙る。その音響を、心に書き留めるのだ。
 ときに、悲しみが歌に混じる。それは、林と雨に任せてしまおう。歌として、昇っていくだろう。今はそこには、行けぬのだから。
 わたしの大都会。渦は相変わらずわたしを試し、揺らす。それに耐え、うちに迎える。
 すると再び、澄んだ幻想が訪れる。それは、ロシアがくれたものなのだ。わたしの中でこうして生きている、現実なのだ。
  
2楽章
 虚ろな旋回。謎めいた社会。その定まらぬ感じ。どこに流れて行こうというのか、この群れは。
 人々の愁い、迷い。麗しく、しかし深い享楽の沼は混濁している。
 流れるようで流れず、歌うようで歌わず、足を引きずって夢を求める人々。
 降りることはできず、解決を見ず。そんな輝かしい舞台。
  
3楽章
 しかしそれでも、夜は明ける。何も無いがらんどうな日が。
 何も紡がれず、崩れては持ち直すの繰り返し。
 しかし、その中での模索。すると音楽が生まれてきたではないか。
 これを書こう。これを記すのだ。同時代を、そのまま写し取るだけだ。
 しかし、しばし立ち止まる。虚空を見上げ、想い、音を探る。それは、長い探求。
 すると、何か得体の知れぬものが湧き上がり、わたしを包む。それは、光が見えるようでもあり、闇のようでもあり。
 深海に、上方から光の一撃。しかし、それはわたしを救い出そうとはしない。かすかに、音楽がたゆたうのだが。
 時代に戻った。めまぐるしさに、次第に対していた。自分のものとして。
 すると熱を帯び、見つけた音が鳴り始める。巨大さを飲み込み、新世界の一切を鳴らし始めた。その重みのまま、その規模のまま揺らし、響き渡らせる。放埓に、輝かしく。それが、わたしの人生だった。
   
上原と松田の2台ピアノ
 ラフマニノフの祖国への想い。祖国と作曲との強いつながり。それは、これまで松田の演奏で実感してきたことだけれども、この日の2台ピアノの演奏に接して、ノートを読み返し、言葉を選んでいたら、一つの考えが生まれた。
 この日舞台に生まれた詩情の深さは、言うまでもない。幾度も打たれた。その中に、ずっといたかった。
 しかし、2人は、詩情を漂わせながら、同時に熱情を底流させていた。同時に聴き、同時に想わなければならなかった。これがラフマニノフが2台ピアノの作品を書かずにはいられなかった動機ではなかったか。同時に自分を訪れていたことを、せめぎ合っていたことを表現したかった。
 彼は、自らの孤塁を手放さなかった人だった。ピアニストとして華々しく活躍しながらも、自らの心を訪れる音響への忠実さを一生捨てなかった。外界から自らを訪れるものが、実に錯雑し、混迷している。しかし、ときに光が射し、紆余曲折を経て、解決が見えてくる。そのとき、自らを苦しめた紛糾が、自らの生をより大きな次元のものへと変容させていった。そういう体験を、世の中に書き残しておきたかった。
 そこでラフマニノフは、ひたすら純粋に書き記した。この日、上原と松田が演奏によって生み出した感動は、作曲家のこの一途な願いを引き受け、十全に、ありのままに音響に移し替えようという意志によるものだと思う。
  
上原の演奏
 上原の演奏を初めて生で聴いた。上原は、音響の有する望みを愛惜し、開示させようとするピアニストだと思う。それらの世界への働きかけ。限界を試し、聴き手に問おうとする。
 「13の前奏曲」の3曲。哀愁、苦悩、不安、霊感。ラフマニノフの内面を素描し、鮮やかに印象づけながらも、最終的に連れて行きたかったのは、第10曲ロ短調終盤の音響だった。一切を包含し、一切を無にしてしまう壮絶、非情の時空に引きずりこんだ。
  
松田の演奏
 作品世界と人間精神を経験させるピアニスト、松田華音。2台のピアノのための組曲第2番、第3曲「ロマンス」。林間を流れる風を感じるのだが、これほど人物が描き込まれる曲だとは思っていなかった。風と作曲家の交感。風がわたしに入り、またわたしを離れる。そういう澄んだ出来事が、ラフマニノフには確かに起こったのだ。
 「12の歌」より第5曲「リラの花」。この3分間の何という密度。おびただしい出来事。女性の人生の凝縮。幸福感の表現に止まらず、女性の生きざまに直面させる力があった。朝の静けさとひんやりとした空気を漂わせたところへ、香りがすっくと立ちあがってくる。咲き乱れる花々の香りと、女の信条。この2つの間を幾度も往復させられ、このピアノ小品が、いつまでも消えない経験と化した。


# by gei-shigoto | 2023-06-08 17:26

松田華音 シューベルト作曲 ピアノ・ソナタ第13番

 2023528日(日)、ふくやま芸術文化ホール リーデンローズ。「若きヴィルトゥオーゾ・シリーズ 松田華音ピアノ・リサイタル」。


  モーツァルト:ロマンス 
K.Anh.205
        :ピアノ・ソナタ第11番(トルコ行進曲付き)K.331
  シューベルト:ピアノ・ソナタ 第13D664
  ラフマニノフ:「12の歌」Op.21より第5曲「リラの花」
        :練習曲「音の絵」Op.39より第6曲「赤ずきんちゃんと狼」
        :楽興の時 Op.16より第6
  ブラームス:3つの間奏曲 Op.117
  チャイコフスキー(プレトニョフ編曲):くるみ割り人形
 1.行進曲 2.金平糖の精の踊り 3.タランテラ 4.間奏曲 
   5
.トレパーク .中国の踊り 7.アンダンテ・マエストーゾ
 
市民文化に支えられた作曲家
 フランツ・シューベルト(17971828)が生まれたのは、全ヨーロッパ的に市民革命が進展していた時期に、旧態依然の家父長的な政治・社会体制を守っていたオーストリアであったと、ドイツ文学者、音楽評論家の喜多尾道冬(1936~)は述べている。
  
<こうしてオーストリアは市民革命がヨーロッパに浸透しはじめていた時期に、旧態依然の家父長的な政治・社会体制を守り、なおかつ革命の波及の恐れから、これまでの鷹揚さに対し、たがをさらにきつく締めつける方向へと転換しはじめる。メッテルニヒの登場がさらに輪をかけることになるだろう。
 シューベルトが生まれたのは、このように全ヨーロッパ的には市民革命の進展する大きな地殻変動のさなかであり、またオーストリアという国にかぎれば領土的にも政治的にも萎縮化のはじまりの時期だったと言うことができる。もちろんオーストリアでも市民革命に共鳴する個々人がいないわけではなかったが、多くは家父長的な揺籃のなかで安逸なまどろみに浸っていた。大砲のとどろきや地殻変動のきしみ音が、たがの外に聞こえてはいても、それをまだ自分たち自身の問題とは考えていなかった。市民の権利の実現を求める「目覚めた」人々はまだ少数で、まどろみに耽る大衆と政治の弾圧とのはざまで浮き上がり、根無し草的な存在になりかかっていた。>〔『シューベルト』〕
  
 ドイツの音楽学者、ハンス
=ヨアヒム・ヒンリヒセン(1952~)によれば、貴族の庇護を背景として、1790年代には名声を得たベートーヴェン(17701827)に対し、シューベルトは市民文化に支えられた人生を送った作曲家だった。
  
<ベートーヴェンがすばやい躍進を遂げたウィーンと、シューベルトの活動の基礎となったウィーンの違いは、世代の差であるとともに共同体層の差であるように思われる。二人の作曲家は異なるサークルのなかで活動したのであり、それぞれのサークルのあいだに接点はほとんどなかった。
 貴族の安定した庇護によってベートーヴェンは、一七九〇年代に早くもゆるぎない名声を与えられていたから、自分を支えてくれた貴族的制度の廃止によるダメージは比較的軽いものだった。作曲家としてすでに自立していたからだ。いっぽうでシューベルトの出自はウィーンの小市民であり、その音楽が社会に出たのは、まさに反ナポレオン王政復古の真っただ中だった。やっと旧来の制度への台頭を果たし、ベートーヴェンとならんで公に認められるにいたったとはいえ、シューベルトは家庭的なビーダーマイアー文化に支えられ、終生にわたってその組織形態に頼り続けた。>〔『フランツ・シューベルト あるリアリストの音楽的肖像』〕
  
シューベルトの幼少期
 少年シューベルトは、オーストリアの学校教師の環境に育った。この環境のおかげで、しっかりした音楽の基礎教育を受けることができた。長兄イグナーツがピアノを、父がヴァイオリンを教え始めたが、すぐにこの二人の手には負えなくなった。
 そこで、一家の住む教区にあるリヒテンタール教会の聖歌隊の指揮者、ホルツァーに指導を委ねることになった。ホルツァーはオルガン、歌唱、音楽理論を教えたが、彼もまた、幼い弟子の才能に驚くばかりであった。
  
<ホルツァーはシューベルトの天与の音楽的才能にびっくりしてこう言った。「こんな生徒はこれまで見たことがない。なにか新しいことを教えようとするともうそれを知っていた。レッスンしたわけでもないのに」。>〔『シューベルト』〕
  
 このころには、シューベルトはすでに小さなリートや弦楽四重奏曲、ピアノの小品の作曲を試みていたという。きわめて早いうちから家族の弦楽四重奏団に欠かせない一員でもあった。
 1804年、シューベルトが7歳のとき、宮廷礼拝堂付き合唱少年の制度が発足した。父親は、つてを求めて宮廷楽長のアントーニオ・サリエーリ(17501825)に会い、息子を合唱少年として採用してもらえるかどうか打診した。
  
コンヴィクト時代
 180810月に、コンヴィクト(帝室王室寄宿制学校)に入学。11歳で初めて親元を離れ、学生寮に暮らし始めた。
 音楽学者の村田千尋(1955~)によれば、シューベルトが5年あまりの学校生活で得たものは3つあった。
 第一に、ギムナジウムにおける基礎的教育である。とくに文学教育は、詩に対する審美眼の源となり、詩形式を超えて、詩の意味に共感することを学んだ。
 第二に、本格的な音楽専門教育とさまざまな音楽体験である。歌唱、ピアノ、ヴァイオリンが課せられたが、入学当初のピアノで一回だけ「良」を取ったことを除けば、成績はつねに「優」であった。「音楽に関する特別な才能がある」と添え書きされることも多く、1809年には音楽活動に対して表彰されている。さらに、寮において、より豊かな音楽経験をした。
 第三は、のちのちまで重要な意味をもつ友情のかずかずである。
  
<寮ではギムナジウムの生徒だけではなく、ウィーン大学に学ぶ大学生もいっしょに生活しており、シューベルトは年齢の異なるさまざまな学友とふれあうことができた。そこで培われた友情が基礎となってさらに友情の輪が広がり、シューベルトを物心両面で支えていくことになる。たとえば、彼の作品が出版され、作曲家として独り立ちしていくきっかけをつくったのも、友人たちのはたらき抜きには語れないし、シューベルティアーデとよばれる集いも、この時代の友人を核として成立している。>〔『作曲家 人と作品 シューベルト』〕
 
 さまざまな学友と過ごした少年時代。しかし、コンヴィクト時代の級友エッケルによれば、シューベルトは内向的な一面をもった少年だった。
 
<シューベルトはもう少年時代から、どちらかというと内向的で、精神的で心情的な生き方をしており、それが外にあらわれるときは、言葉よりは音符であらわされることの方が多かった……。>
<コンヴィクトの少年たちが散歩に出るとき、彼はたいていひとり離れて、目を伏せ気味に両手を後ろ手に組んで、指を(ピアノを弾くみたいに)動かしながら、自分ひとりの思いに耽りながら歩いていた……。>〔以上、『シューベルト』〕
  
 コンヴィクト時代の作品の多くは四手ピアノ曲のように、友人や家族と楽しむための曲だった。管弦楽曲は、寮オーケストラで演奏するために作られた可能性が高い。
  
<この寮オーケストラという場で、彼の交響曲第一番ニ長調D八二は私的にではあるが初演されたという記録が残っており、彼が当時作曲した管弦楽曲の多くも、この場で演奏されたであろうことが推測される。>〔『作曲家人と作品 シューベルト』〕
  
 ところが、シューベルトが音楽に熱をあげるにつれて、彼の学科成績は低迷し始めた。親子の葛藤が始まったのは、このころであった。
  
<シューベルトが音楽に熱をあげるにつれて、彼の学科成績は低迷しはじめる。とくに数学の成績は惨憺たる状態だったようだ。このことは、息子がりっぱな教師になることだけを望んでいた父にとっては許しがたいことであった。息子が家庭音楽会のために趣味として音楽にたずさわることは望ましい。あるいは、勉強の場を得るために音楽の才能を利用することもなんら問題がない。しかし、音楽にうつつを抜かし、落第するなどということがあろうものなら、奨学金がもらえなくなり、教師になるための道も閉ざされるおそれがある。このころから始まった親子の葛藤はかなり激しいものであったようで、両者に深い心の傷を残すこととなった。>〔『作曲家 人と作品 シューベルト』〕
  
 父に対する根深いコンプレックスは、
1822年、25歳のときに書いた散文「わたしの夢」にも表れている。そこにはシューベルトの音楽の本質をなす言葉も語られていると喜多尾は述べている。
  
<ここには父との二度にわたる不和が語られている。それが具体的にはどのような事件だったのかはわからないが、現実でも父との衝突があったのだろう。一度目は母の死を契機に解消される。しかし二度目の衝突が生じたらしい。そして父と子が和解するには、その後長い年月を要したと思われる。そうした父との確執が、彼の音楽の創造に大きくかかわっていた可能性を見過ごすことはできない。
 この「わたしの夢」に言いあらわされている、「愛をうたうと悲しみになり、悲しみをうたうと愛になる」という言葉は、彼の音楽のいちばんの基本をなしている。シューベルトはそれを、父との対立の過程のなかでつかんでいったのだろうか。>〔『シューベルト』〕
  
友人たちと社交サークル
 181311月、16歳のシューベルトは、コンヴィクトを退学した。およそ一年間師範学校で学んだのち、1814年秋に父の学校の補助教員として就職した。
 しかし、この仕事に馴染むことは、ついにできなかった。シューベルトは、友人たちに会うために、授業のない日曜日や祭日などに、古巣のコンヴィクトを訪ねることがあった。
  
<たしかに大人の目から見れば、彼らは目障りな不良グループのようなものだったにちがいない。今日で言えば、ロック・ミュージックに夢中の高校生たちが、学校をやめて正業についている仲間のところへやって来ては誘い出したりするのとおなじわけだ。
 少年たちはそんな敵視に耐えながら、あちこち場所を変えては自分たちの音楽をたのしむ環境を見つけようと懸命になっていた。コンヴィクトの少年たちは、毎日のように古くさい宗教音楽と付き合わされている。それにうんざりしている彼らは、自分たちの若々しい感性に合った音楽を本能的に求めていたはずだ。シューベルトは、彼らの求めにぴったりの音楽を無尽蔵に生み出してくれる理想的な打出の小槌だったろう。シューベルトも、自分を頼りとしてくれる仲間のために新しい音楽を生み、彼らに聴いてもらうのをよろこびとしていた。こうして彼らは内輪で音楽をたのしみ合った。それは、自分たちではまだ意識していないとはいえ、自然発生的なサロンの一種だった。>〔『シューベルト』〕
  
 それまでサロンと言えば、貴族など上流階級のものであった。しかし、
1811年の対仏戦争による国家財政の破綻と、それに連動する貴族階級の地盤沈下によって、彼らは楽団を維持したり、定期的に夜会やサロンを開いたりする余裕がなくなり、その規模も縮小し始めていた。
 それに代わって登場してきたのが、中産市民階級であった。彼らは自分たちの背丈に合ったサロンのあり様を見つけ出そうとしていた。
 友人関係のネットワークは、シューベルトにとって本質的なものであった。生涯にわたって最も深い影響を与えたフランツ・フォン・ショーバー(17961882)は、1816年に19歳のシューベルトが最初に両親の家を出たとき、自分の家に迎え入れた。その年の4月、コンヴィクト時代の学生オーケストラの先輩で、支援を惜しまなかったヨーゼフ・フォン・シュパウン(17881865)は、シューベルトのゲーテ歌曲をゲーテに送った。
 シューベルトは生涯を通して雑多な社交サークルとの結びつきを絶やさなかった。それらのサークルが、シューベルトの才能を支えていた。
  
<娯楽にかんしては、夏の郊外へのピクニックや「ソーセージ・パーティ」を含む純粋な気晴らしから、読書会でのハイレベルな知的ディベートまで、じつに多彩な集まりが催されていた。もっとも後者については、メッテルニヒによる監視体制のもとでは限られた範囲でしか展開されなかった。
 「シューベルティアーデ」という名は、この交際のあり方を指すべく、その最も重要な立役者の一人であるフランツ・フォン・ショーバーがおそらく考え出したもので、一八二一年頃に使われ始めた。その集いで議論された文学や哲学の談義は、ともすれば過激にもなったろうが、それをうまく無害に見せかけるために「シューベルティアーデ」という他愛もない名称が使われたのかもしれない。ともかくこの名称は、集いがどれほどシューベルトを基準にまわっていたかを如実に物語っている。ワルツやレントラーやエコセーズといった舞曲を、ピアノを前に夜通し弾きまくることも珍しくなかったからだ。
 さらに考慮に入れるべきなのは、居合わせた親しい知識人や文学者や造形芸術家の面々とならんで、シューベルトがほかならぬ真摯な作曲家として――歌曲や舞曲だけでなく器楽の作曲家としても――受け入れられていたということだ。いうなればシューベルトは、ディスカッションに音楽の側から参加するパートナーとして尊重されていたのであった。>〔『フランツ・シューベルト あるリアリストの音楽的肖像』〕
  
音楽家としての自立
 シューベルトの作品が公の場で最初に演奏されのは、18149月のことであった。出生地リヒテンタール地区の教会で行なわれた記念祝典で、ヘ長調ミサ曲(D105)が演奏された。
 その年の1019日には、西洋音楽の歴史のなかで、重要な出来事があった。ゲーテの詩による最初のリート、「糸を紡ぐグレートヒェン」(D118)が生み出されたのである。
  
<グレートヒェンの不安は、当時の社会の発展の陰に生まれつつあった都市住民の不安と重なってはいなかっただろうか。これまでの安定した村落共同体の円環的な世界と違って、ここでは彼らは急速に変化しつつある社会の、未来への潜在的な不安を無意識のうちに感じとっていたのではなかったか。通作形式の発展性はその表現にぴったりだ。>〔『シューベルト』〕
  
 1816
6月、19歳のシューベルトは、プロメテウス・カンタータの作曲により、初めて作曲料として400フローリンを得た。
 そして1818年、21歳の年は、シューベルトにとって節目の年となった。教師として父親を助けていたシューベルトが、いよいよ自立した音楽家として活動を開始したのである。
 まず、2月に、マイルホーファーの詩による「エルラフ湖」(D586)が雑誌『絵の手帖』第六巻の付録として掲載された。これがシューベルトにとって最初の印刷楽譜である。
 3月には、ウィーン市内のホテル「ローマ皇帝館」のホールで「イタリア風序曲」が演奏された。これが、初めての有料公開演奏会であり、村田は「ようやく専門作曲家への扉の前に立ったということができるだろう」と述べている。
 7月になると、シューベルトはハンガリー系大貴族の一族、エステルハージ伯爵の二人の娘、マリーとカロリーネにピアノを教える音楽家庭教師として、伯爵の別荘、ジェリズ(現スロヴァキア南部ジェリエゾフツェ)に赴任した。
   
<短期の臨時雇いだとしても、はじめて「職」に就いたことになり、同時に、教職との決別を意味する重大な出来事である。シューベルトは大きな開放感にひたっていたにちがいない。旅先から家族や友人に宛てて、喜びに満ちた手紙を送っていることからもわかる。たとえば、八月三日にショーバーら、友人に宛てた「僕はかなり元気です。僕は生きて、神のように作曲しています」(中略)という言葉がそれを物語っているといえよう。>〔『作曲家 人と作品 シューベルト』〕
  
 この年の
11月、シューベルトは生活の保障された教職を辞め、両親の家から最終的に巣立った。
  
<自由な芸術家へといたる最終的な決死の跳躍。そこに向かうためのそもそもの踏切板となったのが、神学校時代から絶え間なく続いた熱狂的な友人と支持者のサークルであったにちがいない。>〔『フランツ・シューベルト あるリアリストの音楽的肖像』〕
  
ベートーヴェンとの対決
 この1818年から1823年頃までの中期の時期は、「クリーゼ」と呼ばれる。危機の時期である。その終わりには、重大な様式転換が生じた。
 シューベルトが「クリーゼ」を体験したのは、器楽作曲家としてであった。
  
<しかし、初っ端から強調しておかなくてはならないのだが、この「クリーゼ」にまったく見舞われることのなかったジャンルが一つ(一つだったとすればだが)ある。歌曲だ。これこそは、シューベルトが当初から超然と意のままにできる初期創作の主要ジャンルだったのであり、生涯よどみなく発展し続ける主題でもあった。(中略)すなわち「クリーゼ」なるものを、シューベルトは創作のあらゆるジャンルにわたって体験したのではなく、もっぱら器楽作曲家として体験したのである。>〔『フランツ・シューベルト あるリアリストの音楽的肖像』〕
  
 1818
5月には、交響曲の中断された草稿が書かれたのだが、この交響曲は、18182月に問題なく仕上げられた交響曲第6番(D589)とは、様式的にも、全体の構成からいっても、まるで違う領域へと足を踏み出した作品であった。ヒンリヒセンによれば、「遅くとも初期交響曲を首尾よく卒業したあとには、無垢に作曲できる日々はおそらく永遠に過ぎ去ったのであ」り、その背景には、「ベートーヴェンとの対決を避けては通れないという認識」があった。
シュパウンによって、コンヴィクト時代のシューベルトが語った言葉が伝えられている。
  
<僕もひそかに、自分がなにがしかの人物になれると望んではいるのですが、しかしベートーヴェンのあとでまだ何かできる人などいるのでしょうか?>〔『フランツ・シューベルト あるリアリストの音楽的肖像』〕
   
ピアノ・ソナタ第
13
 シューベルトは、1819年、22歳の年の7月から8月にかけて、上オーストリアを旅行した。フォーグルの帰省に同道したのである。7月にウィーンを離れ、シュタイアー、リンツ、クレムスミュンスターをめぐって、8月に帰京した。
 ピアノ・ソナタ第13番(D664)が書かれたのは、7月頃であった。シュタイアーに住んでいたヨゼフィーネ・コラー(18011874)というソプラノ歌手でピアニストでもあった娘のために書かれたとされる。
 シューベルトのピアノ・ソナタは、長大な作品が多い。しかし、第13番は小規模であるため、遺作の「イ長調」(D959)に対して、「小さいイ長調」と呼ばれる。音楽評論家の吉田秀和(1913〜2012)は「短くて優雅で親しみ深い作品」と評している。
  
 第
1楽章。歌謡性を備えた瀟洒な楽章である。可憐な調べを聴いていると、緑なす野原やそこに咲く花々が見えるようだ。
 シューベルトがウィーンを初めて離れたのは、1818年、音楽の家庭教師をするために、ハンガリーのジェリズに赴いたときだった。シューベルトは田舎の生活に新鮮な喜びを感じ、生き生きと楽しんだ。
  
<そしてジェリズでの四ヵ月間の体験は、彼の音楽の深いところに浸透してゆく。当時は都市の発達につれて田園がしだいに滅びようとしていた。すると逆説的に、それが都会人にとって牧歌の発見になる。都会の喧騒と人混みに対して、田舎には新鮮な空気とのどかな風景がある。時間に追いかけられ、緊張のたまった都会人にとって、田舎はストレス解消の場となるだろう。>〔『シューベルト』〕
  
 音楽評論家の下田幸二は、このソナタは、同じ年に作曲されたピアノ五重奏曲「ます」と姉妹のような作品であると述べている。
  
<この《ピアノ・ソナタD664》の自筆譜は失われており、以前はD845、D850と同時期の1825年の作と考えられていた。しかし、1819年に《ピアノ五重奏曲「ます」》(中略)の写譜をしたシューベルトの友人のアルベルト・シュタードラーが、このソナタもヨゼフィーネのために書き写していること、また、「ます」と共通するシューベルトの言う「暗闇に対する最高の薬」であるイ長調という明るい調性と作風から、1819年の作品という説が有力である。>〔「下田幸二のピアノ名曲解体新書(
129) シューベルト ピアノ・ソナタ第13番イ長調D664 「眉目秀麗」珠玉のソナタ」〕
  
 しかし、この
2つの作品の世界には、異なるところもある。ヒンリヒセンは、ピアノ五重奏曲について次のように述べている。
  
<一八一九年夏になってなお、光に満ち溢れるイ長調のピアノ五重奏曲D六六七がくるのだ。《ます五重奏曲》として知られるこの曲は今日の室内楽のレパートリーの王道であり、いかなる聴き手もここにクリーゼの症候など感じることはないだろう。>〔『フランツ・シューベルト あるリアリストの音楽的肖像』〕
 
 一方のピアノ・ソナタ第
13番の第1楽章。愛らしい旋律で始まるが、ときおり苦さが混じる。
 1817年の夏以来、ピアノ・ソナタの領域の創作は、何度か中断された。交響曲、室内楽曲と同様、シューベルトは大きな壁に突き当たったのである。ピアノ・ソナタ第13番(D664)は、そうした中で完成した唯一の作品であった。
  
<この時期は二年前に立て続けに六曲のソナタへ手を付けて以来、このジャンルから遠ざかっていたころで、巨大な先人三人の影響から離脱しようと苦悩していた時代でもある。D六一三、六二五、六五五の三つの未完のソナタのためのスケッチがそうした彼の苦悩ぶりを示している。そうした中でこの一曲だけが実を結んでいる。>〔『最新名曲解説全集 第
15巻独奏曲』〕
  
 危機の時期、「クリーゼ」が始まったのは、
1818年のことだった。第1楽章の苦さ、痛みは、創作に関わるものではないだろうか。
 シュパウンは、シューベルトの創造活動について次のように記したという。
  
<シューベルトは何事にも苦しむことのない鈍感な男だと思っていたものは大勢いた、あるいはいまもいるかもしれない。しかし、彼を近くにいて知っていたものは、彼の創造活動がどんなに深く彼を苦しめたか、どんな苦しみのなかで作品を生み出したかを知っている。彼が午前中に、興奮して眼をかがやかせ、それどころか言葉つきまですっかり変わって、夢遊病者のように作曲に没頭している姿を一度でも見たものはその印象をけっして忘れることはないだろう。>〔『シューベルト』〕
  
 ヒンリヒセンによれば、シューベルトは日記に、自分の作品は「音楽への知性と僕の痛みからなる」と書いたという。
 そんなシューベルトを真に幸せにしたのは、作曲という行為だけだった。
  
<幸せが自分から望んで手に入るものでもなければ、外から運ばれてくるものでもないことをシューベルトは十二分に知っていた。彼を真に幸せにしたのは、シューベルトが《在ること》を証明する《作曲する》という行為だけだった。>〔『ロシア・ピアニズムの贈り物』〕
  
 続く三部形式の緩徐楽章は、静的な雰囲気で始まる。前の楽章と違って、陽ざしは淡いように感じる。薄雲のヴェールをかぶっているのだろうか。そんな薄日の空に下に、シューベルトが一人立っている気がする。
 しかし、第2部は明るい。光が射し込んできたのだろうか。そのとき、シューベルトの胸のうちに、何か高まるものがある。
  
 第
3楽章は、愉悦に満ちている。八分の六拍子で流麗で軽やかな主題が走り出す。当時、ウィーンで流行していたワルツを想う。喜多尾によれば、18世紀の末から19世紀の初めにかけて、舞踊の好みは急速に変わってゆき、ゆったりとしたメヌエットから動きの活発なワルツに移行していた。
  
<ワルツの起源は、南ドイツ、バイエルン、オーストリア、それにベーメン(ボヘミア)などの地方の踊りにあると言われ、それは回転しながら踊る舞踊で、ワルツという名称の語源は「回転」に由来する。典雅でゆったりとしたメヌエットにくらべると、粗野といってよいくらいに動きが活発で、しかもたがいにしっかり抱き合って踊るために、野卑だとさえ見なされた。>〔『シューベルト』〕
  
 とくに、カーニヴァルのシーズンには、狂騒的な盛り上がりを見せた。ワルツは格好の気晴らしであった。

<当時のウィーン子のダンス熱は、常軌を逸していると言っても過言ではなかった。とくにカーニヴァルのシーズンは熱狂的で狂騒的な盛り上がりを見せ、だれもが踊りまくった。カーニヴァル最終日の「懺悔の火曜日」には、お祭り騒ぎが朝からはじまり、昼食を取るのが午後の二時から四時。そのあともダンスがつづいて、六時になると夜会に備えて衣装を替え、さらに夜中の十二時まで踊りつづける有様で、教会がその行き過ぎを抑えようとしても無駄だった。>
<だから、ふだんはきびしい検閲と警察の取り締まりに鬱屈したものを感じている一般民衆にとっては、その憂さ晴らしとして、ワルツはいっそう格好なエンタテインメントだったにちがいない。>〔以上、『シューベルト』〕
  
 シューベルトは、五百曲あまりのダンス音楽を生み出した作曲家だった。「ワルツの始祖」と呼ばれるヨーゼフ・ランナー(
18011843)の率いる楽団のワルツを聴くのが好きだったが、オーケストラ用のワルツには手を染めず、家庭でつましく踊る内輪のワルツを作曲した。
 このように、愉悦に満ちたこの楽章に、街並みとワルツを感じるのだが、見逃せないのは幾度も壮大な高まりを見せることである。
 喜多尾によれば、シューベルトは新しい市民の心の中の夢をなぞる音楽を目指そうとしたという。
  
<都市が発展してゆくにつれ、そこに暮らす市民のひとりひとりは、心に抱いている夢も、都市とともに大きく広がってゆくように感じたことだろう。シューベルトは夢が紡ぎ出されてゆく道筋、羽ばたいてゆく軌跡をなぞる。>〔『シューベルト』〕

 それと同時に、シューベルトの構想も広がっていくようだ。親密な友愛の世界の向こうに、広い世界が見えていたのだろうか。
  
松田の演奏
 第1楽章、第1主題。緑なす野原の雰囲気を、ピアノで表現していくのではなかった。野原でもの思うシューベルトが、初めからそこに見えた。
 やや速めの入り。しかしためらい、想いにふける。言いよどむ。春の野が広がり、流れつつも、さまざまな仕草が、心地が継起する。そういう世界と人間のあり様を、松田は同時に感じさせていくことができる。文献で理解するのとは違う。シューベルトと、音楽の中で出会っていた。
 そして、第2主題。ここの、しんみりとひそやかな音色。小川。静かな流れ。しかし、それに心があったこと。シューベルトもわたしも、それを感じている。
 そんなささやかな流れ、水のかすかな輝きに対して、苦さのすその広がりなのだった。苦さを吐露するのではなく、彼の生活の背後に広がっていたもの。彼のすぐそばに横たわっていた翳り。
 次第に高まり、壮大な世界になってくる。そうやって彼とともに生きたのだから、ともに歩んで来たのだから、聴き手も高まらざるをえない。ここで熱を帯びなかったら、聴いたことにはならない。そういう時間になっていた。
 そして、静かに暮れてくる。シューベルトは、美しい夕映えを心ゆくまで眺めるのが好きだった。そのことを、ここで初めて思い出した。
  
 第
2楽章、第1部。シューベルトとわたし、そこまでのもの。すっかり大気と溶け合ってしまった。おぼろげな太陽。空の淡い広がり。それは、この日の演奏を聴くまで、気にかけていたことであった。松田は幻想的に、この上なく深く味わわせてくれた。
 吉田は、『吉田秀和作曲家論集・2 シューベルト』の中で、シューベルトのピアノ作品の書き方は弦楽四重奏に近いこと、通奏低音によるバッハのコラールの和声体とも、旋律が上声部にだけある古典の音楽とも違い、各声部が独立し、ことに内声にも歌があることを述べている。
 松田は、打鍵をほとんど感じさせなかった。ソプラノを突出させず、内声も静かに語る。先に行ってしまわずに、その響き合い、溶け合いの中に居させてくれた。
 それは、本当に薄曇りの空の下を歩むときの心地。願っていた世界。それが、音楽になっていた。さみしく、しかし生が包まれている。
 第2部。雲間から光が射し、うっすらと明るくなっていくところ。心身を健やかに開いていくことができた。「自分の生を、神が見つけてくれた。」ノートにそう書いていた。
 第3部。シューベルトの鼓動はまだ熱い。まだしばらくこの大気の中で過ごしていたいのだろう。
  
 間髪入れず、第
3楽章。街中を吹き抜ける風と、ワルツの調べの溶け合うさま。それは、春の風そのもの。しかし、その転換が決して唐突ではなかった。作品冒頭からそこまでの音楽の持続が、この旋回へとつながっているような、風のワルツなのだった。
 そこで、力感が生まれる。作曲家の進み行こうとする、生命感。
 第2主題は、市民の宴。その揺れる感じを、シューベルトは感じているのだが、次の瞬間、作曲家はそこから力を得るのだった。「ぼくも、揺れて生きていく。」
 その活力、放埓さと、あくまでも軽く俊敏な風との対比。風は、あらゆるところを、市民の間を行き交う。
 そして、その街を乗り越え、その先の世界を広々と望んだ。
  
<たしかに内気で控えめではあったが、心のうちに音楽家として成功しようとするはげしい闘志を秘めていた。>
<ふだん目立たぬように控えめに過ごしていても、彼の心のなかには外見からは窺えぬ強靭な芯のようなものが秘められていることがわかる。外見の控えめさと内面の矜持の対比は強烈で、その張り詰めた緊張関係のなかに創造の秘密が隠れているような気さえしてくる。彼の抑制された謙虚な姿勢は、内面にマグマのように沸騰し爆発しかかる創造力を飼い馴らすための知恵だったのかもしれない。>〔以上、『シューベルト』〕

1楽章 アレグロ・モデラート
 緑なす野原。花々の優しさ。かすかな想い、愁い。しかし、春のすべてが迎え入れてくれた。(第1主題)
 小川のほとり。せせらぎは、明るくきらめく。心は、空を映している。(第2主題)
 しかし、人生の苦さ。翳り。それは、すぐそばに横たわっている。
 緑なす野原。花々の優しさ。かすかな想い、愁い。しかし、春の色どりがある。(第1主題)
 静かな小川。さらさらと明るく流れ、空を映している。(第2主題)
 しかし、人生の苦さ。幻滅。暗い谷間。
 そのとき、強く湧き上がるもの。熱情、闘志。一人の芸術家として生きるということ。
 緑なす野原。花々の優しさ。春の美しい夕映えを、眺めていた。(コーダ)
  
2楽章 アンダンテ
(第1部)おぼろげな太陽。今日は、ヴェールをかぶっている。(主題)
 淡い陽ざしは、一人にしてくれる。ぼくには、それが好ましい。
 さみしくて、穏やかなとき。大気との溶け合いをもたらしてくれる。(嬰へ短調の経過主題)
(第2部)そのとき、雲間から光。野原とぼくを、かすかに照らし始めた。
 過ぎ去った日々。過ぎ去った悲しみ。ぼくは、見つけられた。神に見つけられたんだ。
(第3部)おぼろげな太陽。今日は、ヴェールをかぶっている。(主題)
 淡い陽ざしは、心を静かに解き放ってくれた。
 さみしくて、穏やかなとき。大気との溶け合いをもたらしてくれる。その深く静かな安らぎ(嬰へ短調の経過主題)

3楽章 アレグロ
 春の風が流れる。あちこちで、ワルツの調べ。(第1主題)
 ぼくも、希望を持って進み行く。どこまでも憩わずに、休まずに。
 人々は踊り、かつ歌う。友愛の輪。市民が心に抱く夢。(第2主題)
 ぼくも、揺れて生きて行く。生の予感に満ちて。自分の直観に従う。
 時代の変転。めまぐるしさ。新しいスタイルの模索、格闘。
 春の風が流れる。あちこちで、ワルツの調べ。(第1主題)
 新鮮な力。芸術家であることの誇り。至高のものへと向かう。
 人々は踊り、かつ歌う。友愛の輪。市民が心に抱く夢。(第2主題)
 そのとき、友愛の世界の向こうに、遥かな世界。確かに壮大に控えている。
 春の風が流れる。ワルツの調べ。幸福な夢が、抱かれている。(コーダ)
  
〔参考文献〕
音楽之友社編『最新名曲解説全集 第15巻独奏曲Ⅱ』、音楽之友社、1981年。
喜多尾道冬著『シューベルト』(朝日選書)、朝日新聞社、1997年。
吉田秀和著『吉田秀和 作曲家論集・2 シューベルト』、音楽之友社、2001年。
村田千尋著『作曲家 人と作品 シューベルト』、音楽之友社、2004年。
原田英代著『ロシア・ピアニズムの贈り物』、みすず書房、2014年。
ハンス=ヨアヒム・ヒンリヒセン著『フランツ・シューベルト あるリアリストの音楽的肖像』(叢書ビブリオムジカ)、アルテスパブリッシング、2017年。
イリーナ・メジューエワ著『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』(講談社現代新書)、講談社、2017年。
下田幸二著「下田幸二のピアノ名曲解体新書(129)シューベルト ピアノ・ソナタ第13番イ長調D664 「眉目秀麗」珠玉のソナタ」『レコード芸術』709号、音楽之友社、2021年。

# by gei-shigoto | 2023-05-29 15:53 | 音楽