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まちでであった芸術。そのしごと、しごと場。
by gei-shigoto
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ショパンの生きた時代

ショパンの祖国ポーランドは、ヨーロッパの中心に位置し、侵略しようとねらう強大な国に囲まれ、さんざん強国の犠牲になってきた。18世紀のはじめにはロシアと、ドイツの前身であるプロイセンとに侵略されていた。国は二つに分けられ、ポーランド人はそれぞれ別の国籍をおしつけられていた。ロシア語か、ドイツ語をしゃべらなくてはならず、ポーランド語を話すことも、お祭りなどの伝統的な行事も禁止されていた。ポーランドという国の文化は、徹底的におさえつけられたが、それにもかかわらずポーランド魂は、けっして滅びることはなかった。

母ユスティナは優しく、家庭的で母性愛に満ちていた。ユスティナは子守歌としてポーランド民謡を歌い、そのためショパンは生まれもってポーランド民族音楽に慣れ親しむこととなった。幼かった冬の夜、通りがかりの宿屋からマズルカとオベレクの力強い音楽がきこえてきた。ショパンは吸い寄せられるように窓辺に近づいていったといわれている。
音楽学校で正式に指導する以前から、ショパン家でたびたびショパンの演奏を耳にしていたエルスネルは、その小さな手が作りだすポーランドの民族音楽を基盤にした独創性あふれる即興演奏に感嘆していた。だからその稀有な才能を、厳格な音楽理論で束縛して台なしにすることをおそれたのだろう。

エルスネルは、学生の習作としてピアノ・ソナタの作曲はさせても、ほかの生徒にたいしてのようにオーケストラ作品作曲を必修だと無理強いしようとはしなかった。オーケストラを使うのならば、ピアノをそこに加えたほうがいい、ショパンの才能にはピアノが必要であることをエルスネル自身がだれよりも知っていた。
そこに生まれたのが、《モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」のアリア〈ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ〉による変奏曲》変ロ長調だ。この作品をとおして、ショパンの音楽学校時代の成果がさらにあきらかになる。ショパンは、オーケストラとピアノによる作品に、自分の才能の広がりを感じていた。この作品の成功から、その後3年ポーランドに滞在している間、オーケストラを背景にピアノがいかに美しく鳴り響き、歌えるかを追求することに夢中になっていく。
ポーランドをあとにしてパリに到着する前の年1830年までに、ショパンはこの分野の作品を、ほかに《ポーランド民謡による大幻想曲》イ長調、《ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク》、そしてピアノ協奏曲2曲を含めた5曲も書き上げている。注目すべきことは、そのいずれにも民族音楽的色彩が感じられることだ。ショパンらしいポーランド的音響をあふれさせる、とりわけ魅力的なピアノとオーケストラ作品が、20歳になろうとするショパンの手から次々に生み出されていった。

ショパンは激しい時代の転換期に生き、個人では超えられない時代の矛盾のさなかに、そう長くはない人生を送った。七月革命から二月革命へ向けてのパリは、明らかに近代に向けて大きく前進していた時代であった。資本主義の発達期の矛盾が露呈してきて、発展する社会と個人の尊厳、機械文明と人間という新しい問題意識を抱かざるをえない時代であった。
しかし、この時代はたしかに一つの「理想」が存在していた。ショパンは時代の「現実」と「理想」、そしてその矛盾と相剋を最も敏感に感じとれる立場にいたともいえる。彼はこうした時代精神の底に流れる近代性を誰よりも鋭敏な感性をもってとらえ、自己の芸術を創造したといえるであろう。
というよりも、ショパンが生きた当時のパリの“革新性”や“コスモポリタン的なおおらかさ”というものは、おそらく19世紀を通じてひときわ光り輝くものであったと思われる。近代精神に基づく新しい芸術の生まれる条件は、この時代のパリにおいてこそ揃っていたといえるであろう。

〔参考文献〕
河合貞子著『はじめてのショパン』、春秋社、1992年。
パム・ブラウン著『伝記 世界の作曲家6 ショパン』、偕成社、1998年。
小坂裕子著『作曲家 人と作品 ショパン』、音楽之友社、2004年。
by gei-shigoto | 2015-10-20 22:25 | 音楽
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