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佐伯胖 理解による参加
佐伯胖(さえき・ゆたか)は日本の認知心理学者である。『「学ぶ」ということの意味』では、「勉強」があって「学び」が失われている現代において、学ぶことの意味を問い直し、人と人、人と文化を結びつける学びの道を探っている。
拙著『わかり方の根源』(小学館、一九八四年)の第一章では、私はつぎのことをまず「公理」として認めようと提案している。すなわち、 人は生まれたときから、己をとりまく文化になじみ、その文化の発展と新しい文化的 価値の創造へ参加しようとしている。(『わかり方の根源』七ページ) この「公理」をそれこそ絶対に疑うことのできない真実として実感したのは、同書にもかんたんに触れたが、ある知人(母の友人)のお葬式に参列しているときであった。 その人は、若いときに重い病気にかかり、何度も手術を受けたが回復せず、そのうち親類や夫からも見放されて、結局三〇年間を病院のベッドで過ごした人であった。私はまだ幼い頃に、入院する前の彼女とは母の友人であるということで知り合っていた(今ではほとんど記憶にない)が、その後は長い間なんの交流もなかった。私が東京で大学生になってからは、母(当時、関西に在住)に頼まれて、ごくたまにお見舞いに行く程度であった。 私がお見舞いに行くと、その人は全身で喜びをあらわしてくれた。そして、呼吸もたえだえに、かすれた声で、いろいろな話をしてくれた。それらは、感動した本の話、他人から親切にしてもらったエピソードなど、いわゆる「たわいのない話」であった。 あるとき(FM放送がはじまって間もない頃)、FM放送が聞けるラジオ(その当時はまだめずらしかった)を買ってきてほしいと頼まれた。「FM放送だと、音楽がとてもきれいに聞こえるらしいのよ」ということであった。指定されたメーカーの安いモデルのFMラジオを買ってきてお渡ししたが、その後はお見舞いに行くと、ほとんど耳のすぐそばの枕もとに置いて、(周囲を気づかってか)極端にボリュームをしぼって聞き入っておられた。 亡くなられる最後の数週間は、一呼吸ごとに「苦しい」と言っておられた。 葬儀は病院所属の小さな教会で、病院のお医者さん、看護婦さん、ほかにはごく少数の知人たちだけが参列した、静かなミサであった。 葬儀ミサに参列しながら、私はずっと考えつづけていた。「この人の人生とは、結局何だったのだろう。」 この人は、何も遺さなかった。ほとんど一文無しで、ただひっそりと、苦しみながら、ひとり、この世から去られた。 そのとき、先にあげた「公理」が、まるで天からの声のように、私の頭の中に聞こえてきたのである。「すべての人は、生まれたときから、最期の息を引き取る瞬間まで、文化的な営みに参加している。」 その人は、何も世間が評価するような技能を達成したわけではないし、創造もしていない。ただ、「理解(appreciation)」というものをもっていた。本を読み、音楽を聴き、そして他人を「理解(appreciate)」していた。すべて「感謝(appreciation)」をこめて。そしてそのような理解をしていたとき、それは、まさに、私たちと「ともにある」仲間であった。その人が「わかる」とき、それはその人の心の中のできごとではなく、わかり合うこの世界の文化の営みに参加していたのだ。 「わかった」ということは、それだけで、その人の作品なのだ。それは、その人の、ほかの人の「わかり」への呼びかけであり、贈り物でもある。また「わかった」ということは、わかり合う人々への仲間入りであり、価値の共有への参入なのだ。 文化というのは、「つくる人」だけで構成されているのではなく、「つくる人」と「使う人」、そして「わかる人」との協同で営まれているのである。 もしも「わかる」(むしろ、理解=感謝appreciation)という世界がなく、すべて人はつくり出すか、消費するだけだとしたら、これはもう文化でもなんでもない。たんに食物連鎖の一環にはまっている生物の、「食べるか、食べられるか」の生活の延長であるにすぎない。 むしろ人間は文化の営みの中で、わかり合うことで生きており、生活しているのだ。 ここまで考えたとき、生涯のほとんどをベッドの上で過ごし、形になるものはほとんど何も遺さなかったその人の一生が、最期の息を引き取る瞬間まで、「わかる(理解する、感謝する)」という、最も文化的な実践に参加していた、ということを確信した。 *佐伯胖『「学ぶ」ということの意味 子どもと教育』、岩波書店、1995年。
by gei-shigoto
| 2014-05-01 23:03
| 教育
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