「役に立つ」とか「利益になる」のではなく、物事がその真相を表すときは「美しい」ということなのだろう。自然にせよ、人間にせよ、あるいは人間の作品にせよ、私たちが何らかの主体的な目的や道具連関をもって対象を見ているかぎりは、対象に何らかの変形・変容を施すことになる。ときには、それがその物事の本来の姿や調和をゆがめてしまうこともある。
私たちが自然や物事を見ているときは、実はこのゆがんだ形で無意識に見ている。それは、人間が実践的に生き行動するためにはやむをえないことでもある。物事を美的に見るためには、感性がフルに働く必要があるが、これがあまりに前面に出すぎると、実践的に生きることができなくなる。日常生活で感性が摩耗するのは当然で、実践的な生の中でいちいち感動していては身も心ももたない。感性が摩耗し、実践的・利害的な形で世界を見れるからこそ、世知辛い世の中を生き抜けるのだ。
物事を美しく現象させる芸術家は、そうした日常性に揺さぶりをかける存在である。かつては、人々はお寺や教会に集まり、仏や神と直接に向き合ったり、遍歴の旅をすることで自己と超越的な理念との間にあった世間・世界をいったん解消し、無化した。利害や日常性にまみれた俗世界はここで一度浄化され、再びそこに戻ったときに新たな相貌が見えてくるわけだ。そして、寺社や教会で芸術家たちによるすぐれた宗教的芸術作品を観ることで、自分たちの目には見えなかった世界の真相に触れることができた。庶民にとって、天国や浄土はそうした作品によってイメージされたことだろう。
近代においては、こうした聖なる空間がその存在意義をなくし、代わりに芸術の世界にも商業主義が浸透している。美的なものですら、実践的・利害的な世界観が混入して、日常性に変貌している。近代から現代にいたる芸術家の営みの共通点は、私たちの眼差しをおおっている利害・関心によって彩られたこうした世界像の破壊ということができる。彼らは、私たちが陥っている功利的なものの見方に揺さぶりをかけ、世界の真相はもっと違うところにあるのではないのかというメッセージを送り続けているのだ。
*清水満『共感する心、表現する身体 美的経験を大切に』、新評論、1997年。