人気ブログランキング | 話題のタグを見る

まちでであった芸術。そのしごと、しごと場。
by gei-shigoto
カテゴリ
全体
リスト
音楽
美術
文学
建築
その他
教育
プロフィール
リンク
最新のトラックバック
以前の記事
2024年 12月
2024年 01月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
2023年 05月
2023年 04月
2023年 03月
2023年 01月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 04月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 10月
2010年 07月
2010年 04月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


キリスト教の普遍的犠牲愛 近代をかたちづくった精神

竹下節子は、パリ在住の文化史家・評論家である。『キリスト教の真実――西洋近代をもたらした宗教思想』は、キリスト教という合わせ鏡をとおして、現代世界の底流にある設計思想を解明する探究の書。

  第一章 ヘレニズム世界に近代の種をまいたキリスト教
  第二章 「暗黒の中世」の嘘
  第三章 「政教分離」と「市民社会」の二つの型
  第四章 自由と民主主義の二つの型
  第五章 資本主義と合理主義の二つの型
  第六章 非キリスト教国の民主主義
  第七章 平和主義とキリスト教

キリスト教は、ユダヤ教という一神教から分派して生まれたものである。
ユダヤ教とキリスト教の違いが生じた理由は、ユダヤ教においてはいわば究極の「上から目線」で人を裁いてきた神が、自分の「独り子(=ナザレのイエス)」を人間として地上に送りこみ、犠牲に捧げたことに由来する。この「神の子は」、上から目線どころか、最後には、抵抗もせず蔑められて殺されるという地上の生を通して、人間と神の関係をラディカルに変えた。

その「神であり人である」というイエスが残した「新しい掟」こそが、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ一三-三四)というものである。「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉が意味することは、この「神の子」が自分の迫害者も含めたすべての人を「救う」ためにみずからの命を捧げたように、ということである。
紀元前一世紀のこの場所で、そこに「互いの愛」が持ち込まれたのは、画期的なことだった。

普遍宗教(地縁血縁を問わず、ある教義の信仰を表明することで救済を得られる宗教)のなかでキリスト教のみに特有のものがある。それは、「帰依すれば誰でも救われる」という点ではなくて、「普遍的犠牲愛」が掟とされた点である。
キリスト教徒はこの「普遍的犠牲愛」という行動規範によって、宗教を問わない無償の教育や知識の交換、世俗の国教を超えた修道会の発展、病者や貧民の救済、同業者の互助組織といった社会福祉のネットワークの原型を少しずつ作っていった。
キリスト教史においてはいつの時代であっても、「普遍的犠牲愛」に立ちかえり、光をあて、優先権を与える聖職者や修道士や信徒が出てきて、「内部改革」や刷新や進路変更が繰り返された。

通説的な世界史の記述では、「ユマニスム」に到達する人間中心主義は、ルネサンス期において古代ギリシャを再発見したことで得られたと考えられている。だが、そうした歴史理解は断じて間違っている。キリスト教に内在する世界観を延長していけば、おのずから「ユマニスム」へ到達するからである。
つまり「ユマニスム」は、「神から自由意思を与えられた人間が、自分の良心に従って行動を選択し、神の国の建設に参加する」という、キリスト教の内包する神と人とが連帯する世界観の帰結として得られたものなのだ。キリスト教がなければ、「ある普遍的理念に向かって、平等な個人が自由意思で連帯して進む」などという特殊な考え方が生まれる確率はきわめて少なかっただろう。

公に認められる奴隷制度も植民地侵略も今はほぼなくなったし、信教の自由も、政教分離も、差別撤廃も、基本的人権も、「国際社会の常識」になりつつある。この「国際社会」はやはり「西洋近代」由来のものであり、彼らが掲げた普遍的な「よりよい社会」という進歩主義の一つの成果なのだ。さらに、その近代西洋にそのような「普遍善」へ向かって進歩するという意識が生まれるようになったのは、「キリスト教」の特殊性がヨーロッパという生態系の中で進化してきたからにほかならない。

キリスト教の「宗教色」希薄化と喪失により、近代以降の西洋の諸問題、つまり絶望と虚無が生まれてくる。人間が宗教抜きで、理性のみで自立し自己充足できると信じた傲慢が近代の病を誘発したのである。
私たちは理性の刃を研ぎ、感性を澄まし、弱い者が連帯できるような普遍主義(カトリックとは普遍という意味である)の復権を図らなければならない。

*竹下節子『キリスト教の真実――西洋近代をもたらした宗教思想』(ちくま新書956)、筑摩書房、2012年。
by gei-shigoto | 2012-07-21 21:09 | その他
<< 内村鑑三著『デンマルク国の話 ... 岡本太郎著 『今日の芸術 時代... >>